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謎の小説家・未来狂冗談(ミラクルジョウダン)が、思い付くままに物語を綴(つづ)ります。
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思い付くまま忍者物語・第二章(六)(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)

平安期・陰陽寮首座の安倍家は貴族「土御門(つちみかど)家」として、陰陽寮助の加茂家は貴族「勘解由小路(かでのこうじ)家」として貴族に序せられる。
この賀茂氏の血を継ぐ陰陽寮の陰陽助、勘解由小路家(かでのこうじけ)の由来は、勘解由使(かげゆし)と言う官職である。
初代征夷大将軍・坂上田村麻呂を使い、本当の意味で日本列島の大半を征服した大王、桓武天皇(第五十代)は、新王統の創始を強く意識し、積極的な政治・行政改革を展開した。
中でも帝の支配威を国内に周(あまねく)拡げる為に、弛緩しつつあった地方行政の再構築に取り組んだ為、その遂行手段として誕生したのが勘解由使(かげゆし)である。
その勘解由使(かげゆし)の役目を多く賜っていたのが賀茂氏で、賀茂氏の当主が陰陽寮の陰陽助として貴族に列した事から、勘解由(かでの)の名は官職名から公家の呼称となり、勘解由小路家(かでのこうじけ)と言う名跡になった。
桓武天皇(第五十代)の支配威強化を目指した支配体制再構築の行政改革は地方に及び、国司の交代事務引継ぎが難題と成って利権紛争が頻発した。
前任国司やその親族、家臣が在地領主化して定住した為に新任で赴任して来る者との間には、権限と既得権益の争いが発生する。
その結果、地方行政を監査・監督する勘解由使の職が新設される事となった。
律令制下で、国司の交代事務引継ぎが問題なく行われた証として、後任国司から前任国司へ交付されたものが解由状(げゆじょう)で、受領(ずりょう)による国司交替時の利権紛争を抑制する目的で、監査したのが勘解由使(かげゆし)だった。
つまり勘解由使(かげゆし)は、国司の不正を監視・摘発する為に設けられた令に規定のない令外の官(特別な役職)で、日本の平安期に於いて「地方行政」を監査監督する為に設置され、地方行政監査官を担当した。
令に規定のない令外の官で、平安初期、地方行政を監査・監督する為に設置された。その後、監査の対象は内官へと拡大した。
いずれにしても、明らかに勘解由使(かげゆし)は「監査官」と言う言わば摘発官であり工作員である。さながら米国のFBIと言うより「CIA」と言う所か?
勘解由使は、平安末期頃まで、「監査機関としての統合任務を負った機能を担い続けた」と考えられている。
思い付くまま忍者物語・第二章(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)(七)へ続く

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思い付くまま忍者物語・第二章(五)(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)

聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が残っているので紹介する。
実は大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は歴史の中で交錯しながら互いに影響し合っているからである。
聖徳太子の大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群、同じく秦氏への太子の要請によるとされる河勝(秦河勝/香具師・神農行商の祖)と伊賀の国人、秦氏流・服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀流忍術の祖)の三団体の事である。
忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし、こうぐし、やし)の祖とされる川勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。
日本列島に織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持ち込んだのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。
この機織(はたお)り部から「はとりべ」となり「はっとりし」と成った服部氏は、後世余りにも有名な伊賀郷の忍術者の家系として江戸幕府・徳川家に雇われている。
また、「伊賀・服部流と双璧を為す」と評価されるのが「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群である。
川勝氏の香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言い祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売る。
その名の通り香具師は、祭礼や祈りの為の神具を扱っていた。
香具師の起源については、古代に遡(さかのぼ)る伝承をもっているが、明確ではなく、一説には秦氏の川勝氏が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述があり、川勝氏が「香具師(かうぐし)の祖」とされている所から、「行商に身をやつして諜報活動をしていた」と考えると、祭りに付き物の「見世物小屋」の出演者も「いかにも」と言う事に成る。
つまり全国各地を移動しても怪しまれない職業が、「香具師(かうぐし)であり、旅芸人」と言う事になる。
この香具師の取り扱うものに、祭りの面(おもて)がある。
例の誓約(うけい)神話に拠る夫婦(めおと)二神、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)の面(おもて)であるが、この面(おもて)が祭りの場に商われていたとなると、その需要は「暗闇乱交祭りに供された名残」と捉える事もできるのである。
つまり全国各地を移動しても怪しまれない職業が、「香具師(かうぐし)であり、旅芸人」と言う事になる。
どうやらその最初の成り立ちとして、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れの陰陽修験は村落部、秦氏の流れ服部氏と川勝氏は町場の氏族相手と守備範囲の役割を分けて居たのかも知れない。
しかしながら武術の発祥は陰陽修験道からであるから、「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群や秦氏の流れである服部氏と川勝氏も修験武術の習得を通して両者に接点は在った筈である。
思い付くまま忍者物語・第二章(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)(六)へ続く

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思い付くまま忍者物語・第二章(四)(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)

五世紀も終わりに近づくと、物部氏と蘇我氏が、伝来した仏教の扱いで対立する。
当時の物部氏は古くからの歴史ある名門で、青銅鋳造術を神格化する銅鐸祭祀(物部神道)を擁する物部一族は当然ながら神道擁護排仏派だった。
反対に蘇我氏は言わば少し遅れて来た新興勢力で、宗教的基盤のない蘇我氏は仏教を大和朝廷に導入、統治に利用する事を考える。
つまり当初の蘇我氏による仏教支持はその教義に傾倒した訳ではなく、有り勝ちな事だがあくまでも勢力争いの具である。
その争いの時点で、大連(おおむらじ)・物部尾興(もののべおこし・臣王)と大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ・臣王)の力は拮抗していたが、欽明大王(きんめいおおきみ・天皇・第二十九代)が仏教に傾倒し、蘇我氏の勢力が強く成って行く。
この大連(おおむらじ)・物部尾興(もののべおこし・臣王)と大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ・臣王)の勢力争いは陰陽修験組織も翻弄を余儀なくされるのだが、実は中立を守っている。
当然ながら、陰陽修験の理念は物部尾興(もののべおこし・臣王)側に近かった。
しかし一方で陰陽修験道の真髄が、あらゆる信仰を取り込んで大王(おおきみ・天皇)の統治に利用する為の組織だった。
この陰陽修験道の真髄、「あらゆる信仰を取り込む」が、いずれこの物語で記述する、実は現代に到るまでの「信仰受け入れに寛大な」日本人の「良い加減」な信仰精神の基本と成り得たのである。
この時代まだ、日本列島・大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)は地方を領する有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いに翻弄され、利用される武力を持たない精神的な統一の象徴だった。
背景の争いがそんなだから、大王(おおきみ/天皇)後継者を巡る争いが繰り広げられる。
物部氏と蘇我氏の争いは、敏達(びたつ)大王(おおきみ・天皇第三十代)の御世に成っても、息子達の大連(おおむらじ)・物部守屋(もりや)と大臣(おおおみ)・曽我馬子(うまこ)に引き継がれ、更に、敏達大王(おおきみ・天皇・第三十代)が崩御すると、次期天皇の「擁立合戦」に発展した。
物部守屋に加勢した中臣勝海(なかとみのかつみ)が蘇我馬子に暗殺され、馬子の推する「用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)」が即位する。用明天皇が崩御すると、物部守屋は、再び用明天皇のライバルだった穴穂部(あなほべ)皇子を立てようとしたが、蘇我馬子と合戦になり、大連(おおむらじ)・物部守屋は討ち取られてしまう。この敗戦で、加羅系・物部氏(新羅派)は衰退して行く。
思い付くまま忍者物語・第二章(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)(五)へ続く

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思い付くまま忍者物語・第二章(三)(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)

ここで、言わば諜報工作組織である陰陽修験から少し寄り道をして、大和朝廷の正規軍の話を入れる。
実は大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は歴史の中で交錯しながら互いに影響し合っているからである。
陰陽寮の設立から遡る事五百年ほど前、自らが「神の意向で統治する」武力を持たない大王(おおきみ/天皇)の下で、大和朝廷の正規軍は大豪族・物部(もののべ)氏が受け持っていた。
武士を「もののふ」と呼ぶ語源が、もののぶ=物部(もののべ)で、物部(もののべ)の「物」は武器を指し示すものである。
つまり物部氏(もののべし)は、大和朝廷に於いて武器を扱い管理する部民だった。
武器を扱う氏族として物部氏が大和朝廷でその地位を固めた理由であるが、物部氏は当時最先端の青銅鋳造技術をもつ鍛冶氏族であった事からである。
当然ながら、大和朝廷初期の段階に於いて諜報工作組織である陰陽修験への武器の供給は物部(もののべ)氏であるから、役小角(えんのおずぬ)の修験道成立当初から物部(もののべ)氏と陰陽修験組織との接点は想像に難くない。
両者の接点は、当初武器を供給する部門と使用する部門から始まっているのである。
また物部氏は、青銅鋳造術を持って銅鐸祭祀(物部神道)をする「新羅系の渡来人であった」とされ、仏教とは相容れない立場にあった事が、後に伝来した仏教を取り入れて勢力を伸ばそうとする蘇我氏との軋轢を生んだのではないか」と言われている。
前述のごとく役小角(えんのおずぬ)は、日本列島に存在した原始信仰と渡来信仰を組み合わせて陰陽修験道を成立させている。
この銅鐸祭祀(物部神道)が、当然ながら陰陽修験の成立に少なからぬ影響を与えている筈で、その関係は「良好だったと」推測されるのである。
古事記・日本書紀に拠ると、物部(もののべ)氏は河内国の哮峰(タケルガミネもしくはイカルガミネ/現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト(饒速日命/邇藝速日命)を祖先と伝えられる氏族で、元々は兵器の管理を主に行なっていたが自然と大伴氏とならぶ武器を扱う「軍事氏族へと成長して行った」とされている。
言わば物部(もののべ)氏は武門を売り物にする古代の有力豪族(部族王・臣王・国主)で、連(むらじ)の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓(あそみ/あそんせい)を賜っている。
欽明(きんめい)大王(おおきみ・天皇第二十九代)の御世になると、物部尾輿(もののべおこし)が欽明天皇と組み、当時最有力豪族(臣王・国主)だった大伴(おおとも)氏(臣王・国主)の大連(おおむらじ)大伴金村を失脚させている。
大伴(おおとも)氏の失脚で最有力豪族になった物部(もののべ)氏であるが、大伴(おおとも)氏衰退の間隙を縫って高句麗系の蘇我(そが)氏・臣王が頭角を顕わして来る。
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思い付くまま忍者物語・第二章(二)(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)

十世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。
賀茂忠行・賀茂保憲父子は賀茂・葛城の血を引く賀茂・役小角(えんのおづぬ)の陰陽道継承者である。
忠行・保憲は「晴明」に天文道、保憲の子「光栄」に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は、天文道・暦道を完全に取り込み、朝廷での影響力を強めると伴に昇進を果たして地位を不動のものとし、天文道の安倍氏(土御門家・つちみかどけ)と暦道の賀茂氏(勘解由小路家・かでのこうじけ)が陰陽二大宗家として独占的に支配する様に成った。
陰陽師として有名な安倍晴明は、歴史に忽然と姿を現している。
陰陽道を創設したのが賀茂氏であり、神武朝から葛城朝に大和朝廷が変わっていたから、本来なら中務省・陰陽寮の首座(陰陽頭)は賀茂氏でなければならない。
それなのに賀茂氏(賀茂忠行・賀茂保憲)は、わざわざ安倍晴明を弟子にして天文学を教え陰陽寮の首座(陰陽頭)に据え、自らは副首座(陰陽助)に下った。
そこに重大な、何か隠された意味が在って当然ではないだろうか?
調べてみると、賀茂忠行・賀茂保憲父子が実子の賀茂光栄でなく、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明に、天文道を伝えたにはそれなりの訳がある。
実は朝廷の強い要請に拠るのである。
元を正せば勘解由小路(賀茂)家は、代々鵺(ぬえ)・土蜘蛛・鬼を管理監督する初期陰陽修験道創始者・役小角(えんのおずぬ)の子孫の家柄で有る。
処が、当時はまだ列島中に中々根強い抵抗勢力(鵺(ぬえ)・土蜘蛛・鬼)の蝦夷(えみし)ゲリラが残っている。
つまり、先住部族蝦夷(えみし)を国家体制に取り込むには、その有力部族長・安倍氏を取り込み、蝦夷(えみし)の原始信仰をも取り込まねばならない。
実は、安部清明の「安倍」は東北最大の蝦夷族長(俘囚長)と同じ血統の出自で有る。
言うなれば、元々進入征服部族の寄り合い所帯だった朝廷は、「天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった」と言う神話において象徴される新旧民族の融和(誓約)の夫婦(めおと)二神が、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)として登場する猿田毘古神(サルタヒコ)側の蝦夷族長・安倍氏を貴族として取り込む事によって同化政策を進め、国家体制を固める思惑があった。
それで、自分達が神々の子孫と言う神話を作ったように、土蜘蛛(蝦夷/えみし)を治め導く陰陽師の頭「陰陽寮首座の貴族」に安倍家を据える必要があったのである。
「突拍子もない」と否定するかも知れないが、安倍家の朝廷からの賜姓(しせい)を良く読んで欲しい。
貴族「土御門家」である。
これを素直に読むと土蜘蛛、或いは土族(つちぞく)の帝(みかど)・・・「つちみかど」なのである。
そして、宮中で、天文学を操って都の平穏を呪詛すると同時に、蝦夷の「統括及び民意誘導」を執り行う陰陽寮の長官・陰陽頭を任じたのである。
この「御門(みかど)」と言う使い方、蘇我氏などの臣王の文献にも使用され、「蘇我御門」などの表記もある事から、「部族王を表わす」基準としての表記なのかも知れない。
その後「平家一門」などのグループ表記に「門」が使用される元になったと考えられる。
平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は、「公卿に列する事のできる家柄」へと昇格して行く。
しかし中央で貴族化する一方で、信仰として庶民の間に根付いて行く修験道組織も存在した。
その話は、少し飛んでこの後の第二章の(五)へ譲るとしよう。
思い付くまま忍者物語・第二章(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)(三)へ続く

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思い付くまま忍者物語・第二章(一)(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)

大王(おおきみ/天皇)の御世に初めて役小角(えんのおずぬ)に拠って組織された「陰陽修験道組織」は当初秘密警察の色合いが濃いものだったが、大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)が始めた壮大な隠蔽創作ドラマ(古事記・日本書紀の編纂)を、偉大なる侵略大王・桓武天皇(第五十代)が受け継いで古事記・日本書紀の編纂の完成を急がせ、「陰陽寮」を設置、皇統の正統性を確立する為に力を入れた。
最澄が入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう・短期留学生)の折、唐(中国)から持ち帰った物の中に、青銅で作られた年代物の六輪の錫杖(しゃくじょう)があった。かれは、見るからに風格のあるその錫杖(しゃくじょう)を「統治者の持ち物に相応しい」と、桓武帝に献上する。
その錫杖(しゃくじょう)を、葛城氏族系賀茂家の、役(賀茂)小角(えんの・かも・おずぬ)から下る事百年余り、小角の継承者である賀茂家に、桓武帝は自らの統治の代行者の証として与え、陰陽寮の「影の実行組織」を再編成する。
以後六輪の錫杖(しゃくじょう)は修験山伏の象徴的必需具となったのである。
八世紀(平安初期)の始め、律令に基づく八つの省からなる中央官庁のうち 天皇と直結する行政の中枢である「中務省」に、陰陽寮は設置された。
この陰陽寮が属している中務省は 天皇とその政に関する仕事を受け持つところで、言わば天皇直属の機関である。当然ながら、それに付する「陰陽寮」も例外ではない。
陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説く事を禁じ、陰陽師の国家管理への独占が謀られた。
つまり僧侶が各自の解釈で説く事の混乱を避け、恐れに対する対策の呪術を陰陽師に一本化したのだ。
当然、当時の国家プロジエクト的建造物の設計や財政出費などの「有無を言わせない裏付け」として、吉凶の御託宣は利用された。
当初利用すべきものだった「陰陽寮」は、時を経るごとに次第に神格化が進み、朝廷は彼らの御託宣を頼る様になって行く。
平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭に連れて、宮廷政治の形式化が進んで、貴族達の占術依存化が流行する。
宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える迷信となった。
これに伴って陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師や陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めて行った。
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思い付くまま忍者物語・第一章(七)(忍者の芽生え/呪術から剣術・忍術へ)

役小角(えんのおずぬ)やその配下の不思議な術は、当時渡来した仏教を通して中華文明の最先端技術を駆使した事である。
今で言う天文学、気象学、医学・薬学(治療術・治療薬から化学反応)、鉱物学(採掘から錬金術)、建築学、機械工学、など多岐にわたる最先端技術である。
これが、無知な民衆には人間業とは思えない奇跡に見え、陰陽修験は恐れられ尊敬される事になる。
現代の日本では、しばしば政治に対するマスメディアの中立性が話題に成るが、過去の歴史に在っては官製メディアが統治に利用された歴史も存在する。
そうした歴史の一番初めに登場するのが、天孫・大和朝廷正統化の啓蒙を目的とした天孫降(光)臨伝説を題材とする物語で構成された「神楽(神座/かみくら・かぐら)舞」である。
言わば官製メディアとして「天孫降(光)臨伝説」を民に周知徹底させるこの物語・神楽舞を、全国津々浦々に指導・布教した組織が陰陽修験の修験導師達の表の顔だった。
「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」の為に表向き「陰陽修験の信仰組織」とした「秘密警察組織」と思われる賀茂氏の修験道行者頭・役小角(えんのおづぬ)とその配下の山伏達は、武装組織であるから杖術を基本として独特に工夫した山伏兵法を編み出ている。
この杖術が後に剣術・槍術・柔術・忍術(しのびじゅつ)へと分化発展して、各々の完成された武術に進化して行く事になる。
槍術、剣術などの古い流派は、いずれも「陰陽師に祖を発する」と言われ、京八流、関東七流などがある。
また、この「神の威光で統治する」と言う建前を基にした警察力欠如の環境が、平安時代以降に京八流や関東七流を必要とする各入植地の自衛農民団、もしくは自衛海運業者団としての武士団の発展を促し、各寺社も僧兵を整備した。
表向きの山伏(やまぶし)の概念は、山の中をひたすら歩き、修行をする修験道の行者の事であり、「修験者」(しゅげんじゃ)とも言い、奥深い山中で、踏破や懺悔などの厳しい艱難苦行を行なって、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事を目的とする。
山伏は「やまぶせ」とも読め、恐らくは身を隠す仕事(影の仕事)を意味している。
その装束と持ち物だが、髪を伸ばし、頭に頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持つ。袈裟(けさ)と、篠懸(すずかけ)と言う麻の法衣を身に纏(まと)い、山中での互いの連絡や合図の為に、ほら貝を加工した楽器や護身用に金剛杖(こんごうづえ)と刀を持つ。
この金剛杖(こんごうづえ)から杖術が生まれ、氏族の武術へと発展して行く事になる。
つまり、武士のルーツ(おお元)が山伏(修験道師)と言う事に成るのである。
役小角(えんのおづぬ)とその配下の山伏達には、「宗教的な要素をもって国家統一の為の活動をする」と言う密命が存在した。
その為に、恐れを祈りで祓う、統一した呪詛信仰の様式、「岩戸神楽(かぐら)伝説」を村々に普及させる。
修験道師(山伏)が山奥の村里にまで潜り込み、広めて行った原始呪詛信仰の神事「里神楽(さとかぐら)」は後に村人の生活に定着し、時を経て昇華洗練され、その修験密教の要素を含みながら、神楽舞・巫女舞として形式化する。
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