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謎の小説家・未来狂冗談(ミラクルジョウダン)が、思い付くままに物語を綴(つづ)ります。
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思い付くまま忍者物語・第三章(六)(平安末期から鎌倉・室町期へ)

源義経・家臣団に関して、帝(後白河天皇)の手に拠る・勘解由小路党修験黒幕説に付いては多くの状況証拠が存在するが、源義経同様に同じ源氏流の木曽(源)義仲にも、勿論そうした情況証拠が存在する。
源頼朝の命で源範頼・源義経らが京に攻め上るまでにいち早く行動を起こし、平家を都から追い落として都を制圧した木曽(源)義仲にも、実は後白河天皇の手が伸びて、勘解由小路党の仁科大助(戸隠大助)と言う信州(長野県)の戸隠修験武者が軍師として付いていた。
木曽義仲に仕えた仁科大助、通称戸隠大助は修験武術の達人で、平安時代末期に信州(長野県)戸隠山で修験道を学び後に戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術と呼ばれるの修験武術の始祖(異説もある)と伝えられる人物である。
戸隠は、「天岩戸が空を飛び、信州のこの地に落ちた」と言う御多聞に漏れない伝説から付けられた名で、修験信仰は盛んだった。
つまり信州(長野県)は戸隠修験道の本拠地である。
真贋は定かでないが、その仁科大助(戸隠大助)が、主(あるじ)とした木曽義仲が源義経に討たれた後は伊賀に逃れ、「伊賀流忍術をも取り入れて完成させた」とされる戸隠修験武術が、「戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術」と呼ばれる「修験武術の流派のひとつに成った」と伝承されているのである。
この事からして、世間で使われている「忍術」なる名称は、修験者が編み出し磨きを掛けた「修験武術の事である」と判る。
木曽義仲の旗揚げの直接的切欠は、皇子・以仁王の令旨が届いたからであるが、こう言う木曽義仲と戸隠大助との経緯を辿ると、義仲の成育時点から勘解由小路党を介して帝(後白河天皇)の手が廻って居た事は容易に想像が着く。
挙兵した以仁王(もちひとおう)が平家に討たれ、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護した義仲が、木曽で旗揚げする。
木曽義仲が旗揚げすると、平家は、清盛の息子平維盛(たいらのこれもり)と甥の平通盛(たいらのみちもり)を大将に、追討軍十万の大軍勢を編成、越前で両軍は激突する。
しかし、山間部の戦いに慣れた義仲軍に、贅沢な都生活で軟弱公家化していた平氏軍は全く歯が立たず、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで敗退する。
この山岳戦、後白河上皇の命を受けた勘解由小路吉次の手の者が支援していれば、彼らは山になれた修験山伏で、結果は最初から見えていた。
その勢いで義仲軍は平氏の大軍を破って押し進み二ヵ月後には京に到達、上洛する。
義仲もまた、義経張りの戦上手(いくさじょうず)で、平家は持ち堪える事が出来ず京の都を明け渡してしまう。
この時平家は、都落ちに際して安徳天皇は勿論、後白河上皇など、朝廷諸共を奉じてあくまでも「正規の政権の体裁を整えよう」と謀った。
しかし、勘解由小路党の手の者により、この「平氏の都落ち」から身を隠して逃れた後白河上皇は、「平氏を賊軍」と宣言してしまう。
馴染みの、天皇側と上皇側の二手に分かれての争いの構図が、建前上またも出来上がったのだ。
この後白河上皇(法王)が、平家の都落ちから逃れられたのには、皇統直属の影の組織・勘解由小路党が活躍した。
彼ら勘解由小路党は、平家を嫌っていた。
平家の後白河上皇(法王)に対する考え方が赦せなかったのだ。
千百八十三年(寿永二年)夏、平家が木曾義仲に都を追われ安徳天皇を連れて西国に落ちた時に、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は比叡山に避難した後白河法皇に同行し、平家との訣別を表明した。
その後、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母であった藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室であった藤原伊子を側室に迎えている。

思い付くまま忍者物語・第三章(七)(平安末期から鎌倉・室町期へ)へ続く
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思い付くまま忍者物語・第三章(五)(平安末期から鎌倉・室町期へ)

牛若丸(義経)は、鞍馬寺で、何者かに自分の身の上(身分)を教えられ、平家打倒を誓って剣の修行を始める。
何者かが勘解由小路の手の者で有ったのは言うまでも無い。
この修行した剣の流儀は、「京八流の剣」と言われ、いずれも修験道の武術より興っている。
この頃、弁慶(武蔵坊)など数人の部下を得ているが、五条大橋の「牛若、弁慶」の話は、興行的には面白いが、「眉唾ではないか」と思われる。
源氏の血筋に、「魅力を感じて集まって来た」と言うのが、現実的である。
実は、この源義経(牛若丸)をサポートして世に送りだした修験黒幕・勘解由小路(かでのこうじ)党の影には、表ざたには出来ない或る「やんごとなきお方(後白河上皇)」の御意志が働いていた。
源義経(牛若丸)が、いかに源氏の血統を有していても、それを担ぎ出す者達が居ないと、妾腹で九男坊の彼は、歴史の表舞台には踊り出る事は無かった筈である。
その、担ぎ出した男達の素性が、或る「やんごとなき方(後白河上皇)」の命を帯びた修験山伏・剣術熟達の一団だったのである。
京八流は、盾を使わない剣法として修験者から生まれ、様々に考案されて発展した。
これは、歴史的に世界でも珍しい剣法(術)と言われ、「相打ち確率が高い」と言われるが、その発祥の経緯で、たまたま相手が未開で有った為に、「剣を持たない」と言う環境から始まっている。
それが精神的におかしな発展を遂げ、卑怯な振る舞いはしない剣術の精神になったが、初期蝦夷(えみし)討伐の時点では、相手に「まともな剣は無かった」と考えると、充分に卑怯だった筈だ。
武蔵坊弁慶は、源義経に付き従う怪力無双の僧兵として広く知られている。
兵法に優れ、武術の達人だった武蔵坊弁慶が、幾ら源氏の血筋とは言え自発的に義経に臣従するのは如何にも不自然である。
武蔵坊弁慶に付いては、当時平清盛と対立していた比叡山から派遣され、源氏再興を謀った「義経付軍事教育顧問」説も浮かんでいる。
つまり武蔵坊弁慶は、最澄が興した、天台宗の総本山・比叡山延暦寺の「修験者(山伏)だ」と言われている。
これが事実であるなら、当然義経の影には「修験者(台蜜山伏)」のネットワークがあり、奇跡的な義経の戦闘方法を彼らが影で支えていたのではないだろうか。
義経主従の主たる人物の半分、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、伊勢(三郎)義盛、駿河(次郎)清重、熊野喜三太、鷲尾(三郎)経春らの正体は、「修験山伏関係」と考えて不思議は無い。強力有能な軍事顧問団であるから、恐らく勘解由小路・吉次の主力の一部だったのではないだろうか。
智謀と怪力で「主・源義経を助けた」と言われる武蔵坊弁慶には詳しい経歴が不明で、比叡山に入山しが乱暴が過ぎて追い出された事に成っている。
弁慶については後の創作が多く、手の付けられない乱暴者が義経に強者の鼻をへし折られて臣従した事に成っているが、そんな愚かな乱暴者が突然悟って知将に成るなどおよそ創作劇的である。
また、義経主従都落ちの後、畿内周辺に潜伏する義経一行を比叡山の僧兵らが庇護しており、義経と比叡山の僧兵の関係を伺わせるが、史実の弁慶については、都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではない。
本来弁慶の詳しい経歴が不明なのは、それこそ「密命を帯びた工作員だったから」と考えるのが順当である。
同様に、伊勢三郎義盛の出自が明らかでないのは、ひとえにその出自を秘す陰陽修験の諜報組織に伊勢義盛が関わって居たからである。
いずれにしても謎の多い人物で「義経記」では、義盛は伊勢国二見郷(浦)の人で「伊勢の度会義連(わたらいよしつら)」と言う「伊勢神宮の神主の子である」とされ、また三重郡司川島二郎俊盛の子として「三重郡福村(現菰野町福村)で生まれた」とも伝えられて居る。
三重郡司(みえ・こおりつかさ)の川島家と言い、伊勢神宮の神主・度会家(わたらいけ)と言い、実は借り物の系図と言う事も伊勢三郎義盛の場合は大いに有る。
伊勢(三郎)義盛は、幼少時に伊賀の中井・某の下で養育されていた。
その後、若い頃に度会郡二見郷に流落し、江村に在住して伊勢江三郎を名乗り、武芸全般の修行をしている。
しかし、何しろ修験の草(影人)の事である。修行時代の若い頃から、居所も名前もその都度身元を気取られないように転々と変え、鈴鹿山に潜伏して一時、焼下小六を称していた。
その後上野国荒蒔郷に潜居して居たが、父・吉次の依頼(命令)で源義経の鞍馬から奥州下向に際し家人として加わり、伊勢(三郎)義盛を名乗っている。
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思い付くまま忍者物語・第三章(四)(平安末期から鎌倉・室町期)

鎌倉の頼朝館に、弟の範頼が参上した。
「兄上、吉野で捕らえた義経の愛妾・静が送られて来ました。」
「おぉ、静は美形の白拍子と聞く、この坂東の荒くれ共の目の保養でもさせるか。」
「目の保養と申しますと?」
「知れた事、静に鎌倉の舞台で白拍子舞を舞わせるのじゃ。」
「それは、如何に義経の妾とは言え、ちと酷うござるが・・・」
「黙れ範頼、静は兄に逆らった弟の妾、以後この頼朝に逆らえばどうなるか、者供に見せねば成らぬ。」
言い出したら、聞かない性格の頼朝が言い出した事である。これ以上逆らえば、範頼自身も咎めを受ける。
静には酷だが、舞を舞わせる他に頼朝が収まりそうも無かった。
「ハハァ、判り申した。早速、そのように手配り致します。」
「手加減は成らぬぞ、舞の衣装は都の薄絹にせい。支度は祐経(すけつね・工藤)にさせるが良かろう。あの者、音曲にも長けておる。」
流人生活の永かった頼朝には鬱屈した性格が染み付いていて、逆らう者やその縁(えにし)に繋がる者には残酷に成れるのだ。
義弟・義経の愛妾・静御前は、頼朝、政子、範頼、北条時政を始め、坂東武者とその妻女達の前で、白拍子舞の披露を命じられた。
この白拍子舞、テレビや映画で表現される優雅な舞ではない。
今様神楽と呼ばれる白拍子の神楽舞の原点は、須佐之男の乱暴狼藉で「天の岩屋戸」に隠れてしまう天照大神が、天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて「何事か?」と覗き見の隙間を開けさせた伝承に拠るもので、里神楽同様に伝承に即したストーリー性を持っていた。<br>
従って今様神楽にはそうしたエロチックな部分が根幹を成していて、遊び女の白拍子舞はお座敷芸として殿方の人気を博していたのである。
つまり白拍子舞の基本は巫女神楽であり、巫女の身体は、本来天岩戸(あまのいわと)伝説の神楽の「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)」の胸も女陰も露わなストリップダンスの様式を踏襲(とうしゅう)した「依(うつ)りしろ舞」である。
後に囚われの静御前が鎌倉の大舞台で、当節の「当世風白拍子の舞いを舞った」と言う事は、実は殿方相手に座敷で密かに舞うべき淫媚な遊び舞を、裸身が透ける薄絹衣装で公に舞うと言う「晒し者の屈辱を受けた」事になる。
これは、長い流人生活で鬱積した残忍な性格を持つ鎌倉殿(源頼朝)の仕置きである。
そもそも鎌倉中の御家人とその女房共を集めての八幡宮・白拍子舞の宴で、鎌倉殿(源頼朝)が「わしに逆らうとこうなるぞ」と、自らの力を御家人達に誇示するのが目的のあるから、半裸で舞を舞わせ晒し者にする義経の愛妾・静御前に憐憫の情や思い遣りなどある訳が無い。
目的が辱めであるから、静御前の鎌倉での舞は、最近の映像で再現される様な優雅な舞ではない。
記述した様に、有物扱いの私奴婢(しぬひ)の出身で、身分が低い白拍子が、身分の高い者が着用する袴の着用は赦されない。
身分の低い者の袴を着さない男装をして「男舞」を踊る所に、その真髄がある。
この狙いが、当時貴族社会「で白拍子」が流行った、真実の所以(ゆえん)である。
これ以上は露骨な表現を控えるが、膝を上げたり広げたり腰をかがめて中腰に成ったりする「男舞」を舞い踊るとなれば、その情景はおのずと想像が着く。
その辺りをうやむやにするから、義経の愛妾・静御前が御家人衆やその女房達の前でたかが舞を強制させられた位で、「大げさなエピソードを」となる。
最もこの名場面、裸身を伴うから史実通りにはドラマで再現し難い事情がある。
それで、静御前の屈辱的心理が表現し難いものになってしまった。
静御前は、その屈辱的な舞を披露させられた挙句の果てには身ごもっていた義経の子を、男児と言う理由で出産と同時に鎌倉海岸の浜で殺されている。
話が少し脱線するが、この「静御前」の八幡宮舞の折、鼓(つづみ)を担当したのが、「楽曲に巧みな工藤祐経(くどうすけつね)だった」と言うエピソードがある。
頼朝主催の「富士の牧狩り」のおりに曽我兄弟に親の仇を討たれた、あの工藤祐経であった。
後ほど事の顛末(てんまつ)を示すが、この工藤祐経(くどうすけつね)暗殺事件は、源頼朝の弟・源範頼(みなもとのりより)の運命にまで波紋が広がる大事件だった。させられた挙句の果てには身ごもっていた義経の子を、男児と言う理由で出産と同時に鎌倉海岸の浜で殺されている。
話が少し脱線するが、この「静御前」の八幡宮舞の折、鼓(つづみ)を担当したのが、「楽曲に巧みな工藤祐経(くどうすけつね)だった」と言うエピソードがある。
頼朝主催の「富士の牧狩り」のおりに曽我兄弟に親の仇を討たれた、あの工藤祐経であった。
後ほど事の顛末(てんまつ)を示すが、この工藤祐経(くどうすけつね)暗殺事件は、源頼朝の弟・源範頼(みなもとのりより)の運命にまで波紋が広がる大事件だった。
神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。
「日本古来の伝統」と言えば、この白拍子の裸舞(ストリップダンス)も、正しく天宇受売(あめのうずめ)から脈々と流れる「神迎えの呪詛」であり、日本の「独自文化」である。それを現在の物差しで計ってしまうと、現実を覆い隠す綺麗事になる。
この「白拍子」、後白河院(上皇/法王)の音頭取りで、宮廷、貴族の屋敷に盛んに呼ばれる様になり、それと知らず思惑通り、貴族や高級武士社会に諜報活動の使命を帯びて浸透して行ったのだ。
同時に勘解由小路吉次は、平家に対抗すべき武力勢力の育成を計画、源氏義朝の遺児達に影人を送っていた訳である。
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思い付くまま忍者物語・第三章(三)(平安末期から鎌倉・室町期へ)

平清盛にすれば常盤御前は命を取り合った敵将の愛妾だった絶世の美女で、同じ女性(おなご)を抱くにしても征服感や興奮の度合いが違うから、邪(よこしま)に楽しめる。
それで義経他二人の兄の助命を聞き入れ、常盤御前に触手を伸ばしてしまった。
その煩悩とも言える欲心が、結果的に平家滅亡の火種を作った事になる。
その後、清盛の子供を身ごもった常盤の生き方を、「壮絶」と言うか「したたか」と言うか、意見は分かれようが、牛若丸(遮那王・義経)にして見れば、父の仇(かたき)の上に、戦利品として母を抱いた男が、平清盛だったのである。
一般の民にとっては、「戦乱の世」と言っても氏族達の世界の出来事で、ただ迷惑な事ではあった。
その戦乱の世の武門も、絶えず戦っていた訳ではない。
領国・領地を運営し、次ぎの戦の為の武器、兵量(ひょうりょう)その他の準備をして、言わば「生活の合間に戦(いくさ)をしていた」と言うのが、歳月の割合とすれば、正確な武門に生きる者の、生活の正しい表現だった。
この有史以来に何度も数えられる戦乱の時代の、武門同士の戦は、一度で決着が着くのは稀で、大概の所は何度も槍を交え、何年もかかる事が多かった。
だから女性達は、その日々の暮らしの中で、愛し合い、憎み合って生きていた。
その男達の凄まじい運命の狭間で、控え目に、しかし、しぶとく力強く生きたのが、実は日本の女性達だった。
伊勢(三郎)義盛は、父・勘解由小路吉次にある事を命じられていた。
「三郎、此度は鞍馬山の遮那王(しゃなおう・義経)を帝の為に武将としてお育てせよ。」
「まだ幼い遮那王(しゃなおう)様ですか?」
「頼朝様や範頼様ではもうご自分の意見が出来上がっている。それに遮那王なれば我らとの縁(えにし)も深い。」
「縁(えにし)とは?」
「遮那王の母御である常盤(ときわ)は、元々我らが手の白拍子じゃが、中宮九条院様の雑仕女(ぞうしめ)に参内させておった。」
「なるほど、それ故常盤様は身体を張った御助命を・・・」
得心したように、伊勢義盛が頷いた。勘解由小路党の女人、白拍子ならさほどの事、造作もなくやりおうせるが道理である。
「われら、選り優(すぐ)りの白拍子を帝のお傍にも平家にも源家にも潜ませて居るわ。」
父・勘解由小路吉次は、自らが構築した白拍子の女体ネットワークに自信を持ち、不適に笑っていた。
「父上、常盤様との縁(えにし)の経緯(いきさつ)が判り申した。ならば、仰せの通りに成して見せまする。」
「武蔵坊(弁慶)を付ける故、素直に、真っ直ぐに・・・な。」
「委細承知。」
伊勢(三郎)義盛は源義経が鞍馬山で剣の修行をしていた牛若丸・遮那王の頃から武蔵坊弁慶と共に義経に臣従し、最初から最後まで行動を共にしている。
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思い付くまま忍者物語・第三章(二)(平安末期から鎌倉・室町期へ)

平安末期から鎌倉初期にかけての花形スターは何と言っても源義経である。
この源義経が幼少の牛若丸(源義経)の頃から、「後白河院(上皇)の手の中に在った」と言う事を貴方は信じるか?
いや、それ以前の母・常盤御前の代から後白河天皇の命に拠る「皇統を守る裏陰陽寮・勘解由小路党の関与が在った」とは思わないか。
源義経の母・常盤御前は出生不明の謎多き女性で、平治物語によれば、近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女の採用にあたり、都の美女千人を集め、十名を選んだ中で一番の美女が「常盤であった」と言われて居る。
つまり出自が定かでないこの美女が、裏陰陽寮・勘解由小路党の「女諜報員では無い」と言う確証も無いのである。
その絶世の美女が、見初められて源氏の棟梁「源義朝」の妾(側室)に上がり、二人の間に、今若丸、乙若丸、牛若丸の三男一女を成した。
所が、「平治の乱」でその義朝が平清盛に討たれてしまう。
この時代の武家の習いでは、一族皆殺しが普通で、特に敵の男子は子供であっても禍根を残さぬ為に命を絶つ。
そうした意味で、この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。
我が子を守りたい常盤は、策に窮して敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、妾として身体を張って三人の助命に成功している。
源義経は、歴史に現れる義朝の息子としては一番下(第九男)の息子である。
源頼朝の腹違いの弟にあたり、若い頃は「牛若丸」と言った。
兄二人と同様に、幼かったので父の敗戦にも関わらず、死罪を免れた。
鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、僧にさせられかけたのは有名な話である。
運命の子、牛若丸(源義経)が生まれて来た時は、一連の大乱、「保元の乱」の只中だった。
本来なら、九男坊の牛若は気楽な人生が待っていたのかも知れない。
しかし父義朝は、牛若丸(義経)がまだ歩けないうちに平清盛に破れ、非業の最期を迎えている。
ご存知「源義経」も、京では白拍子遊びに明け暮れて、愛妾静御前とよしみを通じている。
この白拍子が、帝(この場合は後白河法皇)の命を受けた勘解由小路一党の手の者で、所謂「諜報活動を担当していた」とすれば、まさに「くノ一」と言う事に成る。「美しく教養を持ち、諸芸技に長け、性技にも長けている」となれば、権力者の懐へ入るのは造作も無い。
この後白河院(上皇)のへの密命は義経の母・常盤御前に止まらず、白拍子の静御前を義経に就ける事にまで及んでいる。
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思い付くまま忍者物語・第三章(一)(平安末期から鎌倉・室町期へ)

平安末期の頃から、後白河法皇の庇護(ひご)と贔屓(ひいき)を得て、高級遊女「白拍子」が皇族、貴族社会で活躍する。
実はこの「白拍子」、良く訓練された女間諜(女性忍者)である。
その流行(はやり)は瞬く間に殿上人の間に広がり、平清盛も例外でなく祗王と仏御前の二人の白拍子を、女間諜とは知らずに妾にしている。
世の常で、酒と女の有る所、気が緩むのが男である。
遊び女として、相手の懐に飛び込み、生の情報を拾ってくる白拍子の元締め、勘解由小路党総差配・勘解由小路吉次(金売り吉次)に勝る組織的諜報力は無い。
もたらされた情報が、後の政局を左右する貴重なものが得られたのである。
近頃やたらと「品格」が問題になる。
しかしこの「品格」、権力者が求めるのは一般民衆に対してだけで、自分達の事は「棚上げ」である。
どうやら「特権階級」は文字通り特別らしく、白拍子遊びは、高級料亭の「芸奴遊び」に代って、料亭政治は昭和の中頃まで続いた。
もっとも勤皇の志士も、倒幕の密談場所は「似た様なものだった」そうだから、正に「政局は夜創られる」と言う事らしい。
朝廷裏陰陽寮として帝の権力をサポートする勘解由小路党総差配・勘解由小路吉次(金売り吉次)が後白河法皇に進言、高級娼婦「白拍子」を育成して諜報機関に組み入れた。
「白拍子」、実は急造の組織ではない。
密教陰陽道の修験呪術「歓喜法」の呪詛巫女として、勘解由小路党が手塩にかけて育成された美しい娘達だった。
それ故に神に対する知識は豊富で、男装の神楽舞と殿方相手の性技は年季が入っている。
男の武術と同様な位に、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、大事な生きる為の女の武器(能力)だった。
一般の女性でもその心得を持たされる時代だったから、遊女(あそびめ)の白拍子は、それなりの高度な修行を積んでいた。
「白拍子」にとって、性行為は課せられた仕事で有り、殿方を満足させるのは性技術である。
従って、予めの修練には相応の教育が課せられ、充分な実践教育を受けて、世に出る事になる。
心構えが違うから、いかなる行為にも躊躇(とまど)いなど無い「性人形」と化す。
この章の冒頭で記述したが、平安期については優雅な平安貴族の物語や歌などが後世に残り貴族生活のみが強調されるが、勿論その裏で血で血を洗う権力闘争も、所領(荘園)の獲得の武力紛争や東北蝦夷征服やその後の反乱鎮圧なども存在した。
そして華やかな貴族生活の影では、律令制における厳しい身分制度の中で良民(自由民)と呼ばれる非氏族身分の者や被差別階層として賤民(せんみん/非人・ひにん/奴婢/ぬひ)と呼ばれる被差別階層の隷属的生活も存在していた。
その律令制における被差別階層の賤民(せんみん)を、奴婢(ぬひ)と称して地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者の中から「婢(ひ)」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、遊び女(め)として育て上げる。
更に殿上人に伍す学問を身に着けさせて、呪詛巫女に仕立て上げた。
その巫女の身分も親子代々受け継がれ、それを統括するのも勘解由小路党の役目だった。
その延長上に「白拍子」の組織は出来上がった。
律令制に於いて、民は良民と非良民に分けられていた。
「非良民」とは支配者に税を払わない者を指したが、卑しい身分とされて「賤民(せんみん)」とも呼ばれた。その被差別階級は生き方が制限されていて、「白拍子」の身分は、奴婢(ぬひ)としての生活の中ではより益しな方だった。
目的が女性(によしょう)の立場を生かした高度な情報収集であるから、相手の懐(ふところ)へ入らなければ仕事にならない。
それ故舞の衣装は、本来裸身が透ける様な白の薄絹で、淫秘な雰囲気をかもし出し、殿方の誘惑には余念がない。
男達の五感に訴え、彼らの気持ちを良好にさせるにはそれなりの演出が必要で、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を一度に刺激、誘惑する業が今様を踊る「白拍子」の役目であるから、その音曲なり、姿なりは相応にエロチックで、魅力的なものでなければならない。
この時代の代表的な「白拍子」に源義経の愛妾・静御前が居るが、次回はその物語を取り上げる。
思い付くまま忍者物語・第三章(平安末期から鎌倉・室町期へ)(二)へ続く

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思い付くまま忍者物語・第二章(七)(陰陽寮/呪術と剣術・忍術の分離)

役(賀茂)小角(えんのかもおずぬ)が陰陽組織を編成した時点では、まだ葛城朝の私兵的組織だった。
そしてもっぱら「山岳ゲリラの鎮圧と恭順」、帝の「ある密命(大王の密命)の履行」などの非公式な活動に終始していた。
しかし、正式に陰陽寮が設立されると、正規(公)の職務も割り当てられる。
律令に基づく八つの省からなる中央官庁のうち 天皇と直結する行政の中枢である「中務省」に、陰陽寮は設置された。
陰陽寮の担う役割は多岐にわたり、天文気象学や暦学の発表(気象庁など)、呪詛・占術や信仰の管理監督(今で言う神社庁や一部公安警察)と言った表向きの仕事の傍(かたわ)ら、天皇の意志を具現化する役目も負っていた。
陰陽寮の表の公務は、信仰や占術、呪術の統一と運用をもって統治に活用する機関であった。
しかし、陰陽寮の裏の顔の実体は、大王(おおきみ・天皇)直属の「秘密警察」兼「諜報工作組織」である
いくら建前の奇麗事を言っても、国家の本音に「諜報工作機関」を必要とするのは矛盾である。
これが多くの場合、信仰を利用する所に権力者の狡猾さを感じるのだ。
陰陽寮次官の「陰陽助」勘解由小路(かでのこうじ)の一部は、朝廷の表陰陽寮(おもておんみょうりょう)長官である「陰陽頭」土御門(つちみかど・安倍)の所管した正式業務とは違い、朝廷組織とは独立して大王(おおきみ)の私的意向を果たす役割を担う、裏陰陽寮(うらおんみょうりょう)機関、勘解由小路党である。
役小角(えんのおずぬ)の陰陽修験から派生した勘解由小路党は裏陰陽寮として朝廷のCIAやFBIの役割を負い、陰陽修験者の形態を持って全国に活動範囲を広げて行く。
その勘解由小路党が武術の発祥は陰陽修験道からである。
そして武士(もものふ)の語源・物部氏から枝分かれした穂積系・白藤鈴木氏・雑賀鈴木郷士団と全国にまたがる鈴木氏系の神社神主・宮司も密かに「雑賀流武術を習得していた」とされる。
また、聖徳太子の大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群、同じく秦氏への太子の要請によるとされる河勝(秦河勝/香具師・神農行商の祖)と伊賀の国人、秦氏流・服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀流忍術の祖)、同じく信州・戸隠神社修験道から出た戸隠(仁科)流忍術、東蜜(真言宗・総本山金剛峰寺)や台蜜(天台宗・比叡山延暦寺)の密教修行僧兵団、紀州・真言宗根来寺密教修行僧忍術者群、服部氏と同じ秦氏系の剣術で有名な大和国添上郡・柳生郷の柳生氏郷士団も「武術の中に忍術も習得していた」と言われている。
そうした言わば隠密武術(忍術・諜報術)の手段の中に全国を旅して怪しまれぬ職業として修験者や神官が催す神楽舞の神事があり、そこから派生した形で旅役者一座や神農行商(神前露天商)などが生まれ、その神楽舞などの神事が芸能に発展して行く。
容易ならぬ事に、全国を旅して怪しまれぬ職業である陰陽修験者・密教修行僧・旅役者一座・神農行商などは全て言わば忍術者の始祖または祖である。
思い付くまま忍者物語・第三章(平安末期から鎌倉・室町期へ)(一)へ続く

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