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思い付くまま忍者物語・第一章(一)(忍者の芽生え/呪術ら剣術・忍術へ)
あなたは日本の忍者の始まりを知っているだろうか?
日本の忍者の発祥は陰陽修験道であるから、まず手始めは陰陽修験道の始まりから話しに入るとしよう。
日本の歴史は、実は征服者と被征服者の歴史である。
東シナ海、日本海、対馬海峡、琉球列島伝い、二千年以前と言う悠久の昔から、それは日本列島へ渡る海の道だった。
彼らは征服欲を満たして「王に成る為」に、武装軍団を率いて荒海を渡り来た。
この当時の最新の武器は、青銅製・両刃(もろは)の直剣であるが、金属文化に遅れた列島の先住民相手では充分な威力を発揮した。
古代黎明期の列島の民にとっては、僅か百人の金属武装軍団でも大軍にあたるほど、人口は少なく、広域に分散していた。
その時代、日本列島は渡来人部族にとって「支配地切り取り自由」の新天地だったのである。
当時としては近代兵器の武具を携え集団で渡来して来た征服部族に、元々争いを好まない農耕民族の先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)など一溜まりも無く、瞬く間に隷属化してしまった。
被征服者(民人・蝦夷)にとって、渡来系征服部族(後の皇統と貴族)は当初「恐怖の大王達」だった。
とにかく突然やって来て武力で土地を作物を強奪し、隷属を要求して支配者に治まる。
それらが土地の豪族(氏上)と成り、やがて勢力を拡大して小国家(王・臣王・国主)を作る。
その小国家群が連立して統一国家を形成、大和大国(やまとのおおくに)が成立して大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)を選出する道を辿るのである。
その大和朝廷の幕開けの頃、「恐怖の支配」を実践したのは、初期修験道師達である。
初期修験道師は、果たして民間の自然発生的なものだったのか?
修験道の祖「役小角(えんのおづぬ・賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、賀茂・葛城家に伝わる「呪詛信仰(事代主神/ことしろぬしのかみ)」の呪術、占術、元々列島に存在した八百万(やおよろず)の「原始自然信仰」と、渡来して来た中世の「妙見信仰・北辰信仰」や「道教」を習い合わせて誕生し、その後の仏教などの渡来宗教にも影響を受けて行くのだが、どう考えても自然発生的に陰陽修験が成立したとは思えないのである。
疑うべき最大の疑問は資金と組織力で、表向きの個人的な宗教への情熱などが理由では、余りにも話が綺麗過ぎる。
つまり、行動範囲と人数の規模が、不自然に大掛かりに過ぎるのだ。
それに修験者のあのお馴染の「行者服」の出(い)で立ち、中々凝っていて高価そうである。
山中でも一目で識別が可能なしろものであるが、活動費や行者服の資金はいったい何処から出ていたのか?
あれは常識的に考えて「軍事組織か警察組織の制服にしか見えない」が、如何か?
昔は武人の装備を「出(い)で立ち」と言った。
これには、機能性以外に相手を威圧したり心服させる為のアピール効果の目的が込められている。
いずれにしても、残念ながら人間の見かけなどそう差が有る訳ではないから、衣装や住居など現代にも通じる「こけおどし」が無ければ相手には中々認めては貰えない。
修験者の「行者服」の出(い)で立ちの裏に、「表沙汰にし難い理由」があり、宗教(信仰)でカモフラージュして民間の体裁を整えた「公的な秘密組織ではないか」と、我輩は疑ってみた。
第一章(忍者の芽生え/呪術から剣術・忍術へ)(二)へ続く
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